古語曲解

暇人の妄言なので、受験勉強の参考にしないようにね

突然、高校野球

福島県春大会、県中支部の敗者復活戦

安積黎明4-2郡山東

ごく普通の高校球児同士の対戦

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安積黎明8番仁平君

スクリュー?が効いてました

突っ立って、腕を払いのけるようなフォームながら

制球も良く、危なげなく2失点完投

エースの市川君を温存

市川君は2打席連続ホームラン

***

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山東12番 石田君

やや制球難、2ホームランを浴びたものの、何とか試合を作りました

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郡東1番佐藤君

終盤の試合を締めました

3番市川君を2回敬遠したものの、4番勝負は正解

疾風知勁草 

疾風ニ勁草ヲ知ル

後漢書」王覇伝

 

王覇は、新末・後漢初の人

後漢光武帝・劉秀の臣下で、雲台28將の一人

劉秀がいかなる苦境のときも、王覇は裏切ることが無かった

 

劉秀が更始帝・劉玄の大敵の難を避け、遠く移動したとき

王覇は、騎馬でその後を追った

そのとき、更始帝の放った密偵が王覇を尾行したのである

その密偵は、実は王覇の知己であった

王覇が草原に出たときである

時ならず、疾風が辺りを覆った

密偵は身を隠そうとして腹這いとなったが、周りは丈の低い草である

草が疾風により薙ぎ倒されて、頸から上が露わになった

王覇と密偵とは互いを凝視した

「疾風によって勁草を知った」王覇は言った

この謂いは以下のとおりである

「其方は、私を追って慎重に行動したのであろうが

時ならず風があり、身を露わにしてしまった」

よって、

どんなに注意深く行動しても、時に利が無ければ

思いがけず不手際をするものだ

なお、本邦の戦国時代にあって

密偵なり間者なりを「草(くさ)」と呼んだのは

この故事によるのである

 

 

朝顔に 釣瓶とられて もらい水

加賀の千代女の有名な句である

 

千代女は 加賀の国・松任の人である

句意は

ある朝、井戸から水を汲み上げようとしていた千代女が

ふと 井戸端を見ると 思いがけず朝顔が咲いている

はっとして 朝顔に気を取られ 釣瓶を握る手を放してしまう

水汲みの桶が落下し 井戸の中の水が跳ねあがる

かくて千代女は 跳ね上がった水を 頭からかぶってしまう

もらい水である

よって 我をわすれるほど 朝顔好きな自分を 詠んでいるのである

 

松任付近は 手取川流域の扇状地に当たり

扇状地であるから地下水位が高い

よって、井戸の水位も高く いわゆる浅井戸である

水汲みの桶が落ちた程度で 地上に水が跳ね返るほどである

という考証が可能である

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発憤忘食

論語述而第七

葉公問孔子子路 子路不對

子曰 女奚不曰 其爲人也 發憤忘食 樂以忘憂 不知老之將至云爾

***

葉公子高 楚の王族、葉に封ぜられたため葉公と呼ばれる

姓は沈 名は諸梁 子高は字名

***

今回は、曲解じゃなく正解を

受験勉強でもOKです

「発憤~」を 憤リヲ発シテハ 食ヲ忘レ と訓ずると

えらく怒りっぽいイメージですし、実際、そう解釈する例もあります

そうなると どうも君子っぽくないですね

 

ここは、発憤シテハ と訓じます

学問に気合が入ると、食事を忘れてしまう と解釈すれば

楽シミテ モッテ 憂イヲ 忘ル と 繋がっていきます

そして、歳をとることに気がつかない と 締まるわけです

 

ところで、葉公は ショウコウ と 読みますが(試験に出るかも)

姓は沈とありますが 楚の王族なら 姓は 熊のはずだけどな

 

田一枚 植えて立ち去る 柳かな

奥の細道 の那須黒羽における句である

 

句意は明瞭である

今も昔も 田植えの作業は 人手がかかる

機械化された現代農業であっても

田植え機に充填するための苗箱運びの作業があり

それは、6条植え以上の大型田植え機において かえって顕著であり

直播でもないと、1人では田植えはできない

 

江戸期にあっては 村総出の作業であり

人手は いくらあっても足りない

 

芭蕉が眺めていた田植えは

どうやら人手が足りず難渋していたところ

芭蕉らが投宿していた在地の俳人である

柳行季(やなぎ ゆきすえ)という仁が

もとは農民であったらしく 助っ人を買って出たものである

ただし、芭蕉らを送る途次であったため

田一枚分だけ手伝ったのである

 

それを見ていた芭蕉は 柳とともに その場を立ち去るにあたり

この句を詠んだのである

 

 

 

百年河清ヲ挨ツ

【左氏伝 襄公八年】

春秋期、魯に尾生という男がいた

鄭に旅したときに

河清という男と知り合い、黄河の畔で酒を飲む約束をした

約束の時刻、約束の場所に尾生は出かけたが

待てど暮せど 河清は来ない

正直な尾生は いつまでも待った

付近の住民は これを見て

百年 河清を挨つが如し と 嘲ったものである

 

よって、馬鹿正直で融通が利かない人間を嘲っての謂いである

 

 

 

木ニ縁ッテ魚ヲ求ム

孟子』梁恵王上

 

縁木而求魚

往古、梁の地で竜巻が起こり

川魚が巻き上げられて、地に降り注いだことがあった

この時、人民は木に攀じ登って魚を争って獲ったのである

これを聞いた孟子は、嘆息した

「何という異常気象か、人が木に登って魚を獲っておる」

 

同様の事例は、西洋の中世にも発生している

よって、異常気象を嘆く謂いである